バドミントンの歴史

バドミントンのルーツ

は、バドミントンのルーツは古代文明にまで遡ります。

羽根を使った遊びはユーラシア大陸全域で行われていて、古代ギリシャや中国、さらにはアメリカ大陸の先住民族の間でも見受けられました。

人々が足を使って羽根を空中に保つ中国の遊び「毽子(ジェンズ)」の歴史は2000年以上前になります。

 

中世ヨーロッパでは羽子板のようなものと羽根を使う遊びが子供から大人にまで楽しまれていたようです。

とはいえ、これは単なるレクリエーションの1つで、競争要素などは含まれていませんでした。

日本で羽子板と羽根といえば、お正月の女の子の遊びが思い出されます。

その羽子板と羽根の歴史は7世紀頃から宮中で行われていた『毬杖(ぎっちょう)遊び』が起源とも言われているようです。

羽根つきは邪気を祓い無病息災を願う縁起物として宮中から庶民に広がっていき、鎌倉時代になると羽根つき遊びになりました。

月次風俗図屏風
出典:東京国立博物館研究情報アーカイブズ

縁起物や飾り物として豪華な羽子板に変化したのは、江戸時代の元禄の頃。

災いを「はね」のけるという縁起を担ぎ、女の子が生まれて初めて迎えるお正月に羽子板を飾る習慣が各地で流行るようになったんだって。

また、羽根の付いている玉は「むくろじ」という木の種で、これを漢字で書くと「無患子」、すなわち「子供が患わない」という意味が含まれているとも。

もう1つ、羽根の形をトンボに見立てトンボが蚊を食べる益虫であることから、お正月に羽根をつくと夏になっても蚊に刺されないという迷信もあったとか。

このように日本の羽子板と羽根つきには昔から子供の無事を願う暖かい親心が込められているんだね。

バドミントンの起源

て、ここからが本題です。

私達が現在スポーツやレジャーで慣れ親しみ、今では全世界での競技人口が3億3,900万人とも言われているバドミントンの起源には諸説あります。

「インドにおける新ゲーム、バドミントン」
出典:The Graphic,4/25,1874 p.13.

まず、ある1つの説として、イギリス植民地時代のインドのプーナという地域で1830年代に行われていた皮の球をラケットでネット越しに打ち合う「Poona(プーナ)」という遊びを、インド帰りの兵士が1873年に本国であるイギリスに伝えたというものです。

 

その兵士はプーナを紹介するためにシャンパンの栓に鳥の羽根を刺したものを使い、それをテニスラケットで打って披露しました。

 

その遊びが紹介されたのが、イギリスのグロスタシャーという地域のバドミントン村にあるボーフォート公爵サマセット家の邸宅「バドミントン・ハウス」であったため、バドミントンという名称がついたと言われています。

Battledore and Shuttlecock ラケット
出典:Aucfree

もう1つの説は、イギリスに古くから伝わる バトルドーアンドシャトルコック という羽根突き遊びが元になっているというものです。

このバトルドーアンドシャトルコックは15~16世紀に木の枠に羊皮や羊腸のストリングを張った「バトルドアー」に変化しました。

 

19世紀中頃、前述のボーフォート公爵サマセット家の邸宅「バドミントン・ハウス」で盛んに行われていたこの遊びは、競技性が低く最初は1人または2人で打ち合い続け、回数を競う程度のものでした。

 

そこで、この遊びをさらに面白くゲーム性を持たせるために様々なルールが考え出され、1870年代にバドミントンという名称が定着したという説もあります。

 

なお、初期のバドミントンは「バドミントン・バトルドア」と称されていました。

いずれにしても、イギリス南西部グロスタシャーのバドミントン村にあるボーフォート公爵サマセット家の邸宅「バドミントン・ハウス」がその謂れとされていて、現在のバドミントンの発祥にはイギリスが深く関わっているのです。

ちなみにバドミントン村ってのは今もあって、ロンドンから車で2時間くらいで行けるとのこと。
ボーフォート公爵サマセット家の邸宅「バドミントン・ハウス」も残ってて、羽根突き遊びが行われていた部屋や、当時のラケットとかシャトルなんかも昔のままの様子で保存されてるんだって。
ただ、博物館でも村のモニュメントでも何でもなくて,現在もボーフォート家の人とその使用人たちが住んでいる個人の家。
一般公開はされていないんだけど、公爵夫人に事前に連絡を取って許可されると見せてもらうこともできるらしいよ。
残念ながら現在この村でバドミントンが行われることはなく、今は乗馬やハンティングの方が有名になっているってのは、ちょっと寂しいところ。

イギリスバドミントン協会設立

時のイギリスにはいくつかのバドミントンクラブがあり、それぞれのクラブが独自のルール、いわゆるローカルルールを持っていました。

クラブの数が増えるにつれて各クラブは対抗戦を意識し始めたのですが、各クラブによってルールが違うため、対抗戦毎にルールを摺り合わせなくてはならなくなり、こうしたルール統一の必要性から、1893年に世界で初めてイギリスにバドミントン協会が誕生しました。

 

写真の後列右から2人目が ドルビー大佐 で、「The Badminton Association 」の初代会長です。

 

プレーする人数やコートの広さ、得点など、試合をする上でのルールが詳細に決められ、イギリスバドミントン協会が設立されて以降にルールの統一が進んでいきます。

出典:La Vie du Volant

こうしたルールを元にして、1899年にロンドンで 第1回 全英オープンバドミントン選手権 が行われました。

ただし、第1回大会ではシングルスの試合は行われず、男女のダブルスと混合ダブルスの3種目のみで、全てイングランド勢が制しました。

1921年にはカナダ、1930年にはデンマーク、オランダ、フランスにもバドミントン協会が設立され、1934年に 国際バドミントン連盟(IBF=International Badminton Federation)が誕生。

 

近年ではオリンピックの方が注目されがちですが、オリンピックや世界バドミントン選手権よりも、全英オープンや国別対抗団体戦のトマス杯、ユーバー杯の方が長い歴史と伝統を誇ります。

 

トマス杯 とは1948年にイギリスのプレストンで初開催された男子バドミントンの国別対抗団体戦で、ユーバー杯 は1956年に同国のランカシャーで始まった女子バドミントンの国別対抗団体戦です。

どちらも20世紀初頭に活躍した伝説の名選手、ジョージ・アラン・トーマス(George Alan Thomas)、ベティー・ユーバー(Betty Uber)の名前に由来しています。

ジョージ・アラン・トーマスは1920~1923年の全英オープン男子シングルス4連覇など計61度のメダルに輝き、ベティー・ユーバーは1935年の全英オープンで女子シングルスと混合ダブルスの2冠を達成、主にダブルスで結果を残しました。

団体戦で加えておくと、男女混合の国別対抗団体戦 スディルマンカップ は1989年から2年に1回、奇数年に開催されています。

この大会はインドネシアを代表するバドミントン選手、ディック・スディルマン(Dick Sudirman)のインドネシア国内および世界のバドミントン競技の組織化と発展における指導者、運営者としての功績を讃えています。

日本バドミントンの始まり

本では1921年、横浜のキリスト教青年会「YMCA」の体育主事をしていた 広田兼敏 が、アメリカ人の名誉主事スネードから用具一式を寄贈されたことが始まりと言われています。

広田はその後、在日欧米人からバドミントンを学び、1933年に横浜YMCAの体育活動に取り入れ、1937年にバドミントンクラブを作りました。

 

ところが最近の研究で、1907年6月発行の「東京模範商工品録」に掲載された日本体育商会の広告「日本体育商会カタログ」に、「新遊戯バドミントン」としてバドミントン用品が紹介されていたことが分かりました。

 

イギリスにおけるバドミントンの起源にも諸説あるように、日本のバドミントンの発祥にも今後様々な考察があるかもしれません。

出典:日本体育商会カタログ

その後、第二次世界大戦のため全英オープンバドミントン選手権も中止となり、日本での普及活動も一時停滞しますが、1946年の終戦後に各地のYMCAなどのクラブチームはバドミントンを再開していきました。

同年11月2日には 日本バドミントン協会 が設立されます。

 

1947年、第1回 全日本総合バドミントン選手権 が開催され、男子シングルスは 岡淳一 、女子シングルスは 中村たき が優勝しました。

なお、岡淳一はこのあと1950年まで男子シングルスを4連覇しています。

男子ダブルスは 広田敏秀藤井光男 組、女子ダブルスはシングルスと2冠の 中村たき川俣千枝子 組、混合ダブルスは 森勇岡広子 組が優勝。

ついでながら、男子ダブルスの広田敏秀は、バドミントンを日本に広めたと言われている広田兼敏の息子です。

1949年には第4回国民体育大会の競技種目となり、1950年は第1回全日本学生バドミントン選手権、1951年には第1回全国高等学校体育大会バドミントン競技大会、1952年には第1回実業団バドミントン選手権も開催。

 

実業団チームの男子は富山県の十條製紙伏木工場、女子は愛知県のトヨタ自動車が第1回大会からともに3連覇するほどの強豪チームとして名を馳せていました。

日本バドミントン創成期

際バドミントン連盟に日本が加わったのは、1952年でした。

 

1954年、日本男子バドミントンチームが初の国際大会となる男子の国別対抗団体戦、第3回トマス杯のアジア地区予選に出場しました。

 

日本女子バドミントンチームは1965-1966年に行われた女子の国別対抗団体戦、第4回ユーバー杯で優勝するという快挙を成し遂げてます。

その後、日本の女子チームは1966年から1981年までに5回もユーバー杯で優勝するほどの強豪国になっていたのです。

1966年には 秋山真男 が全英オープンバドミントン選手権の男子シングルスに初出場。

男女を通じ日本人初の決勝進出を果たして準優勝という結果を残しました。

 

 

また、秋山真男は1966-1967年に行われたトマス杯の一員として、日本男子バドミントンチーム初となる銅メダル獲得に貢献しています。

この時のトマス杯で同じメンバーだった 小島一平 は全日本総合バドミントン選手権の男子シングルスで5連覇してますし、小島一平/秋山真男 組は男子ダブルスで3連覇、さらに 宮永武司 は全日本総合で男子シングルスと男子ダブルスの2冠達成などをしていました。

1967年の全英オープンバドミントン選手権では、女子シングルスで 中山紀子 が決勝まで勝ち上がります。

決勝戦ではアメリカのジュディ・ハッシュマンにフルゲームの末に敗れましたが準優勝。

 

 

そして、1969年および1972年の全英オープン女子シングルス決勝では 中山紀子湯木博恵 の日本人対決になったのです。

中山紀子
出典:Kagoshima Pre. Lady’s Bad League
湯木博恵
出典:Kagoshima Pre. Lady’s Bad League

1969年は湯木博恵が全英オープンで日本勢の男女を通じ初の優勝を果たします。

湯木は1971年に中山と組んだ女子ダブルスでも全英オープンを制しており、1974年と1975年は女子シングルス2連覇、1977年にも女子シングルスで優勝しました。

 

2度目の日本人対決になった1972年の女子シングルス決勝は、中山紀子が湯木を11-5、 3-11、 11-7で下して優勝。

さらに、公開競技として行われた1972年のミュンヘンオリンピックにおいては、女子シングルスで中山紀子が金メダル、湯木博恵が銅メダルに輝きました。

中山紀子さんの旧姓は高木なので、その名前で記録が残ってることもあるよ。

中山さんは日本女子バドミントン界のパイオニア、湯木さんはその強さから「女王」と呼ばれ、当時の強豪日本を支えていたのさ。

おまけに湯木さんは全英オープン4度制覇の偉業を称えられ、日本人として唯一の「バドミントン殿堂(Badminton Hall of Fame )」入り。

この殿堂入りはバドミントン界における最高の栄誉とも言われてるんだって。

バドミントンは1972年のミュンヘンオリンピックで公開競技として行われた後、その次のモントリオールオリンピックから正式競技になると言われてましたが、中国が脱退するなどして国際バドミントン連盟が分裂するという事態が起こり、一旦立ち消えになってしまいました。

1977年、スウェーデンのマルメで 第1回 世界バドミントン選手権 が開催されました。

その第1回大会では、女子シングルスで 湯木博恵 が銅メダル、女子ダブルスで 栂野尾悦子植野恵美子 組が金メダルを獲得。

同年の全英オープンバドミントン選手権でも 湯木博恵 が女子シングルス、栂野尾悦子 / 植野恵美子 組は女子ダブルスを制していて、栂野尾悦子はシングルスも含めると全英オープンで計5度の優勝記録を残しています。

全日本総合バドミントン選手権では、銭谷欽治 が男子シングルスで1976年から1979年まで4連覇するなど、男子ダブルスも含めると計7回の優勝を果たしました。

また、全日本社会人バドミントン選手権でも4度優勝、全日本実業団バドミントン選手権でも6回の優勝を誇り、当時の日本における男子バドミントン界を牽引していました。

さらに銭谷は1979年と1982年に国別対抗団体戦のトマス杯の主力選手にも選ばれ、地区予選を勝ち抜いて本大会に出場し、1979年には準決勝進出を果たして、銅メダル獲得に貢献してます。

1988年のソウルオリンピックでバドミントンは依然として公開競技ではありましたが、女子シングルスに出場した 北田スミ子 、男子ダブルスに出場した 松浦進二松野修二 組が銅メダル。

 

北田スミ子は全日本総合バドミントン選手権で1984年から1988年まで女子シングルス5連覇、松浦進二/松野修二 組は同大会で1985年から1992年まで史上最多の8連覇をしただけでなく、男子シングルスでも松浦進二は2度、松野修二は3度の優勝を成し遂げています。

1992年 バルセロナオリンピック

リンピックの正式競技にバドミントンが採用されたのは、1992年のバルセロナオリンピックでした。

このバルセロナオリンピックに出場したのが 陣内貴美子 です。

 

熊本中央女子高等学校(現・熊本中央高等学校)時代から全日本総合バドミントン選手権で実績を残していた陣内は高校を卒業後にヨネックスに入社すると、1985年~1988年まで同大会で女子シングルス4年連続の準優勝、女子ダブルスでは高校時代からペアを組んでいた 森久子 と1988年、1987年、1990年に3連覇、さらに1990年に日本で行われた女子バドミントン国別対抗団体戦ユーバー杯で日本チームの銅メダル獲得に貢献し、1991年の全英オープンバドミントン選手権では、陣内貴美子/森久子 組で銀メダルに輝いています。

バルセロナオリンピックにもバドミントン女子ダブルス日本代表として 陣内貴美子/森久子 組で出場、1回戦は突破したものの、2回戦でイギリスの ジュリー・ブラッドベリー/ジリアン・クラーク 組と対戦し、9-15、10-15のストレートで敗れました。

バドミントンの美女プレーヤーといえば、その元祖陣内貴美子さんなんだよ。

この2年後の1994年に第一線を退いたけど、ヨネックス所属でバドミントンの普及に努める傍ら、各メディアでキャスターやリポーターなどを担当したり、バラエティ番組にも出たりとか

平日の夕方、某ニュース番組の「きはらさ~ん、そらジロ~」は一世を風靡したでしょ(笑)

なお、まだ公開競技だった1988年のソウルオリンピックで銅メダルを獲得した男子ダブルスの 松浦進二松野修二 組は、1992年のバルセロナオリンピックでは準々決勝まで進出し、5位入賞を果たしています。

国際バドミントン連盟(IBF)はオリンピック種目として生き残るために、2000年から7点5ゲーム・サイドアウト制を試行し始めました。

サイドアウト制とはサーブ権を奪い合い、その権利のある方にしか得点が入らない形式です。

しかし、この得点システムは2002年6月に見直され、元の15点(女子シングルスは11点)3ゲーム・サイドアウト制に戻されました。

 

2005年はIBFの提案により、ラリーポイント制について実験的採用が行われた年になりました。

ラリーポイント制とはサーブ権に関係なく、得点が入っていく形式です。

 

2006年5月6日、トマス杯およびユーバー杯が開催中の東京で開かれたIBF年次総会において、21点ラリーポイント制の得点システムが加盟各国理事に満場一致で支持され、IBFの世界ランキング大会はこの方式で行われることが正式に決定し、現在に至ります。

 

そして、国際バドミントン連盟(IBF)は2006年9月に 世界バドミントン連盟(BWF=Badminton World Federation)に改称されています。

日本バドミントン低迷期

代オリンピック開催100周年記念大会として行われた1996年のアトランタオリンピック

 

町田文彦 が男子シングルスに、水井妃佐子水井泰子 の姉妹が揃って女子シングルスに出場しましたが、町田、水井姉妹とも3回戦負けでした。

その前年までの全日本総合バドミントン選手権では 町田文彦 も 水井妃佐子 もシングルスで3連覇していたものの、この時の世界の壁は高かったようです。

 

 

女子ダブルスも姉妹ペアとなる 宮村愛子宮村亜貴子 組が1回戦負け。

阪本雅子松尾知美 組は2回戦で敗退しました。

 

なお、このアトランタオリンピックから正式種目に追加されたバドミントンの混合ダブルス。

しかしながら、当時の日本チームは混合ダブルスには選手を送り込むことができませんでした。

 

2000年のシドニーオリンピックでは、女子ダブルスの 井川里美永峰弘子 組が初戦敗退。

男子シングルスの 舛田圭太山田英孝、女子シングルスの 井田貴子、女子ダブルスの 岩田良子松田治子 組は2回戦敗退。

女子シングルスの 米倉加奈子 は3回戦敗退。

 

ただ、そのような中でオリンピック2大会連続出場となる水井姉妹の妹、水井泰子 が女子シングルスで5位入賞しました。

 

2004年のアテネオリンピックでは、男子シングルスの 佐藤翔治山田英孝、女子シングルスの 米倉加奈子田中美保、女子ダブルスの 山本静香山田靑子 組、混合ダブルスの 大束忠司山本静香 組が1回戦負け。

男子ダブルスの 舛田圭太大束忠司 組、女子シングルスの 森かおり、女子ダブルスの 中山智香子吉冨桂子 組は2回戦負けに終わってます。

 

1990年代から2000年代初頭までの日本バドミントンチームは、全英オープンでもオリンピックでも際立った成績を出すことができず、国際的なバドミントンの大会で結果を残せたのは、2003年の世界バドミントン選手権で 山本静香/山田靑子 組が獲得した銅メダル、2004年のユーバー杯女子団体の銅メダルだけでした。

 

オグシオの登場

こで現れたのが、小椋久美子潮田玲子 の2人です。

 

小学生時代から全国大会の常連出場選手だった二人は2002年の三洋電機入社とともに正式にダブルスを結成すると、2007年の全英オープンや世界選手権では銅メダル、全日本総合選手権5連覇など、輝かしい成績を収めました。

揃って容姿に優れていると言われ、バドミントン界では陣内貴美子以来のルックスと実力を併せ持つアイドル的アスリートとして数々のメディア出演もこなし、バドミントンの広告塔、所属企業のイメージキャラクターとしての役割も担い、写真集まで発売されたほどでした。

 

2008年の北京オリンピック、バドミントン女子ダブルスに出場した 小椋久美子潮田玲子 組、通称「オグシオ」は、小椋の腰椎捻挫が4月中旬に再発していたことによりベストコンディションには程遠い状態だったものの、5位に入賞しています。

また、この2008年北京オリンピックのバドミントン女子ダブルスでは 末綱聡子前田美順 組、通称「スエマエ」が、2004年アテネオリンピックで同種目金メダルを獲得し世界ランク1位だった中国のチャン・ジーウェン/ヤン・ウェイ組を破る大金星を上げるなどの活躍で、バドミントンがオリンピックの正式競技に採用後、日本バドミントン界初のベスト4入りを果たしました。

前田美順は混合ダブルスでも実績を残していて、全日本総合バドミントン選手権では2005年から2008年まで 舛田圭太 と組んだ混合ダブルスで4連覇、その後に舛田が引退すると、2009年と2010年は 平田典靖 と組んで2連覇しています。

2012年 ロンドンオリンピック

日本総合バドミントン選手権で女子シングルス、女子ダブルス、混合ダブルス合わせて10回の優勝、女子の国別対抗団体戦ユーバー杯でも第8回大会、第9回大会において日本の連覇に貢献した 田児よし子(旧姓:米倉よし子 )を母に持つ 田児賢一 が、2008年の全日本総合バドミントン選手権の男子シングルスで初優勝。

舛田圭太 が保有していた19歳8ヶ月の同種目最年少優勝記録を19歳4ヶ月に更新し、以後2013年大会まで6連覇しました。

2010年の第100回全英オープンバドミントン選手権では、日本人として秋山真男以来、44年ぶりに決勝進出。

決勝では当時世界ランキング1位だったマレーシアのリー・チョン・ウェイに19-21、19-21で敗れるも、伝統ある全英オープンで栄えある準優勝に輝きました。

 

 

田児は2012年のロンドンオリンピック、バドミントン男子シングルスの出場権を獲得しましたが、同大会ではグループリーグの試合でスリランカのニルカ・カルナラトネに敗れ、決勝トーナメント進出はなりませんでした。

1996年のアトランタオリンピックからバドミントン競技の正式種目になった男女混合のミックスダブルス。

2012年のロンドンオリンピックには 池田信太郎潮田玲子 組、通称「イケシオ」が出場しました。

潮田は2008年12月に女子ダブルスの「オグシオ」ペアを解消し、2012年は混合ダブルスの「イケシオ」として、2大会連続でオリンピック出場を果たすものの、2012年のロンドンオリンピックは1勝2敗でグループリーグ敗退となりました。

2008年の「オグシオ」ではバドミントンという競技を一般の人にも広め、2012年の「イケシオ」では新たに混合ダブルスの道を切り開いたこと等を考えると、潮田玲子さんの日本バドミントン界における功績は大きいよね。

ただ、メディアへの露出の仕方やその経緯などに異論とかも見受けられるので、好き嫌いは人それぞれあるのかもしれないけど。

なお、この2012年のロンドンオリンピックから、オリンピックのバドミントン競技としては初めてグループリーグと決勝トーナメントの2つのステージに分かれて行われています。

 

青森山田高校出身の先輩後輩で、インターハイにおいてはシングルス、ダブルス、団体の全種目制覇を成し遂げた女子ダブルスの 藤井瑞希垣岩令佳 組、通称「フジカキ」は、グループリーグを2勝1敗の2位で通過。

決勝トーナメントの準々決勝ではデンマーク人ペアに2-0のストレート勝ち、準決勝のカナダ人ペアにはフルゲームの末に2-1で勝利し、決勝戦まで進出しました。

その決勝では中国の デン・キョウ/チョウ・ゲイライ 組を相手に第1ゲームは10-21、第2ゲームはデュースまでもつれ23-25、結局ゲームカウント0-2で敗れましたが、銀メダルを獲得。

 

この銀メダルがオリンピックの正式種目にバドミントンが採用されて以降、日本勢初のメダルとなったのです。

この「フジカキ」ペアの功績も後々日本バドミントン界に大きな影響を与えてくれるのさ

インターハイでの全種目制覇はあの陣内貴美子さん以来25年ぶりの3冠だったんだよ。

違法賭博事件

田賢斗 は2014年の男子バドミントン国別対抗団体戦トマス杯で日本代表チームの一員として初の金メダル獲得に貢献し、2015年にはBWFスーパーシリーズファイナルズの男子シングルスで初優勝を果たしました。

2016年4月7日付の世界ランキングでは自己最高を更新する2位だったのです。

リオデジャネイロオリンピックではバドミトン男子シングルスのメダル有力候補として注目されていましたが、桃田が所属するNTT東日本チームの選手達が東京都内の違法カジノ店で賭博をしていたことが発覚。

 

桃田は出場中だったマレーシアオープンを棄権して急遽帰国し、NTT東日本チームの先輩だった 田児賢一 とともに謝罪会見することになりました。

調査によれば、田児は2014年10月から2015年3月に違法カジノ店を60回ほど訪れ、その負債額は約1000万円とも言われていて、桃田は田児の紹介で合計6回この店で賭博行為を行っていたとのこと。

 

これを受けて日本バドミントン協会は緊急理事会を開き、田児に対しては無期限の協会登録抹消の処分、桃田は日本代表選手指定から外したうえで無期限の競技会出場停止処分とし、この年のリオデジャネイロオリンピックに桃田を推薦および派遣しないと正式に決定しました。

 

この違法賭博事件の主犯格は田児賢一とされていて、田児がNTT東日本チームの後輩を引き連れ率先して賭博をしていたようで、謝罪会見では涙ながらに桃田賢斗や他の後輩たちの処分軽減を訴えるも認められず、田児自身はその責任の重さからNTT東日本も解雇になりました。

日本バドミントン界で男子初のメダルも狙えた桃田賢斗さんがリオデジャネイロオリンピックに出場できなくなったことにより、当時の日本バドミントン協会専務理事だった銭谷欽治さんが会見で泣いて悔しがっていたのが印象的だったなぁ

2016年 リオデジャネイロオリンピック

アメリカ大陸で初めて開催された2016年のリオデジャネイロオリンピック

 

バドミントン女子シングルス準々決勝は 奥原希望 vs. 山口茜 の日本人対決になりました。

当時、奥原は21歳、山口は19歳で、過去の対戦成績では奥原の7戦全勝。

さらに奥原希望はこの年の全英オープン女子シングルスでも優勝しています。

 

リオデジャネイロ大会では山口が第1ゲームを21-11で先取。

しかし、第2ゲームを奥原が21-17で取ると、最終ゲームも奥原が21-10で制して、この大会でも奥原に軍配が上がりました。

 

続く準決勝で、奥原はインドのシンドゥ・プサルラに19-21、10-21のストレートで敗戦。

それでも、3位決定戦で対戦することになっていた中国のリー・シュールイがスペインのカロリーナ・マリンとの準決勝の試合中に左ヒザを負傷してしまい3位決定戦を棄権したことにより、奥原が不戦勝で銅メダルを獲得しました。

女子ダブルス日本代表は、髙橋礼華松友美佐紀 組、通称「タカマツ」。

「タカマツ」は2014年のヨネックスオープンジャパンで日本人初優勝、2016年の全英オープン女子ダブルスも制覇し、世界ランキングは全5種目を通じ日本勢初の1位にもなっています。

 

この2016年のリオデジャネイロオリンピックではグループリーグを3戦全勝で突破すると、準々決勝ではマレーシアペアに2-1、準決勝では中国ペアに2-0で勝利し、決勝戦に進出します。

決勝はデンマークのカミラ・リター・ユール/クリスティーナ・ペダーセン組と対戦し、第1ゲームは18-21で奪われますが第2ゲームを21-9で取り返すと、最終ゲームは16-19という劣勢の状況から相手のミスもありながらも「タカマツ」ペアの怒涛の5連続ポイントで大逆転での優勝。

 

1992年にバドミントンがオリンピックの正式種目に採用されてから24年の歳月を経て、ついに「タカマツ」ペアが日本バドミントン勢として初の金メダルに輝いたのです。

 

試合終了の瞬間、髙橋がコート内に倒れ、松友がその場にしゃがみ込んで喜びを噛み締めているシーンは、リオデジャネイロオリンピックの名場面のうちの1つになっています。

ある逸話として、髙橋礼華さん、松友美佐紀さんとも元々はシングルスのプレーヤーで、本人たちもシングルスを志望していたんだけど、世界でさらに上を目指すにつれてシングルスでは通用しなくなり、2人ともシングルスのプレーヤーとしては伸び悩んでたんだって。

そこで試しに2人をダブルスで組ませてみたところ、これがバッチリとウマが合い、あれよあれよという間に世界ランク1位まで登り詰めて、オリンピックで日本勢初の金メダルを獲得するまでに。

近代バドミトンではシングルスとダブルスでは別の競技かというくらい違いがあるように、各選手にはこういったプロセスもあるんだね。

あねミントンず設立

まるっきり私事ながら、あねミントンず が設立されたのが2018年の4月。

 

当初は姉崎の青葉台地区で育った幼なじみ同士でユル~くやってたバドミントンを、この年に姉崎公民館のサークル登録をしたところから始まったのよ。

ユル~くバドミントンするのは今も変わってないんだけど

 

そのうちにメンバーの中から友人や知人、家族なども参加してくれるようになり、人数が多くなってきたので、サークル内で行うトーナメント戦「あねミントンず杯」とか、ポイント制にしてランキング形式で年間チャンピオンを競い合うように。

桃田賢斗時代

法賭博事件で無期限の競技会出場停止処分を受けた 桃田賢斗 は、試合に出場できない間は裏方として各バドミトン大会の設営準備や社会奉仕活動などを真摯に行っていました。

 

そうした行為が認められて無期限の競技会出場停止処分が解かれると、2017年の全日本社会人選手権で復活優勝。

 

2018年には世界バドミントン選手権で、日本男子バドミントン史上初の金メダルを獲得するに至ります。

2019年にはバドミントン界で最も歴史と伝統のある全英オープンバドミントン選手権でも日本男子シングルス初の優勝を成し遂げました。

さらに同年の世界バドミントン選手権では、決勝でデンマークのアンダース・アントンセンを21-9、21-3と圧倒し、全6試合で1ゲームも落とすことなく、世界バドミントン選手権を連覇。

桃田は2019年に行われたバドミントンの国際大会において、歴代最多となる年間11回の優勝を飾りギネス世界記録にも登録されると、世界バドミントン連盟(BWF)で男子世界最優秀選手を受賞、BWF男子シングルス世界ランキングは2018年9月から2021年11月まで3年2ヶ月もの間、1位の座を維持するほどの活躍ぶりでした。

違法賭博事件で日本バドミントン界を追われた一方の田児賢一さんは2016年12月にマレーシアのプロリーグで競技復帰し、復帰戦では快勝したものの、それ以降は特に目立った成績を残せず

そんな田児さんだったけど、2019年にマレーシアで「TAGO KEN」としてYouTubeを始め、バドミントンのレッスン動画を配信しながら国内外では個人レッスンなども行っていて、今でもバドミントンの普及活動に努めてるんだよ。

TAGO KEN – YouTube

こうした功績なども認められて、2020年11月1日に協会登録抹消の処分が解除されたとさ。

2020年 東京オリンピック

ドミントンというスポーツが日本の中でもより一層の認知をされ始めてきて、特に日本のバドミントン関係者の間ではさらなる大きな期待を抱かれて迎えた2020年の東京オリンピック

日本バドミントン協会は2004年に韓国出身でバルセロナオリンピック男子ダブルス金メダリストのパク・ジュボン ヘッドコーチを招聘して、日本バドミントン界全体の強化に力を入れてきたんだよ。

そこから年月を積み重ね、2012年ロンドンオリンピックでの「フジカキ」ペアの銀メダル、2016年リオデジャネイロオリンピックでの女子シングルス奥原希望さんの銅メダル、同大会女子ダブルス「タカマツ」ペアの金メダル獲得など、同じ国内にいるオリンピックメダリスト達と味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)で切磋琢磨することによって選手層が厚くなり、さらには個々人が大幅にレベルアップされて、地元で行われるオリンピックに万全と思われる形で臨むことになったんだけど・・・

新型コロナ流行による1年の延期はありましたが、この時の女子ダブルス日本代表は2021年7月24日時点で世界ランク1位だった 福島由紀廣田彩花 組、通称「フクヒロ」と、2018、2019年の世界バドミントン選手権を連覇した同ランク2位の 永原和可那松本麻佑 組、通称「ナガマツ」。

当時の世界ランク1位と2位を擁し、誰もがメダル獲得は確実と目論むも、「フクヒロ」の廣田はオリンピック直前の代表合宿で右膝前十字靭帯断裂の重傷を負い、手術は回避できたものの右膝にサポーターを巻いて出場、グループリーグは辛くも突破するが準々決勝で逆転負け。

廣田さんのあのゴッツいサポーターを見た時、特に曲げ伸ばしを頻繁に行う右ヒザなので、バドミントンをするには相当キツいだろうなぁと誰もが思ったはず。

その怪我が発覚後も、福島さんはどうしても廣田さんとオリンピックの舞台に立ちたかったんだって。

「フクヒロ」の敗退が決まった後、福島さんが1学年下の廣田さんの頭を優しくポンポンと叩いて労っていたのには涙を誘われたわ。

身長170cmの永原と身長177cmの松本、2人揃って170cmを越える日本女子バドミントン界では稀有な大型ペア「ナガマツ」はグループリーグを3連勝して順調に勝ち進むも、準々決勝で韓国のキム・ソヨン/コン・ヒヨン組にゲームカウント1-2で敗れました。

「フクヒロ」と「ナガマツ」は2018、2019年の世界バドミントン選手権 女子ダブルスの決勝戦で2年連続の日本勢同士の対決となり、結果は前述の通り「ナガマツ」の連覇。

東京オリンピック決勝で3回目の日本勢対決も期待されたんだけど、どちらのペアも準々決勝敗退に終わっちゃったよ (´・ω・`)

女子シングルス日本代表は前回大会同様、奥原希望山口茜

奥原希望は2017年に日本人選手で初めて世界バドミントン選手権で女子シングルス優勝、山口茜は2018年に女子シングルスで日本人選手初となる世界ランキング1位に浮上していたのですが、2020年大会の東京オリンピックでは2人とも準々決勝で敗退してしまいました。

男子シングルスは当時世界ランク1位の 桃田賢斗 が、グループリーグ第1戦でアメリカのティモシー・ラムに試合時間わずか33分で完勝。

ところが、第2戦で韓国のホ・グァンヒに15-21、19-21のストレートで敗れ、まさかのグループリーグ敗退。

それ以外の年は目まぐるしい活躍をしていたのに、2016年といい2021年といい、桃田はオリンピックには縁がなかったようです。

桃田賢斗さんは2020年のマレーシア・マスターズの帰りに乗っていた白いバンがトラックに衝突する事故で、顔の裂傷と全身打撲の怪我を負い、さらに右眼窩底骨折。

ホント運がなく、もったいなかったなぁ。

結局、地元で行われた2020年大会の東京オリンピックでは、混合ダブルスの 渡辺勇大東野有紗 組、通称「ワタガシ」が3位決定戦で香港のトウ・シュンブン/シャ・エイセツ組を破っての銅メダルを獲得したのみで、これが日本バドミントン勢における唯一のメダルとなりました。

2024年 パリオリンピック

本バドミントン界は、この頃から代表に選ばれるだけでも至難となり、世界ランキングもバドミントン全5種目それぞれで日本勢が上位を占めるようになってくるほど、各選手とも実力をつけてきたのです。

 

2024年のパリオリンピック国内代表選考争いでは、男子シングルスで一時代を築いた 桃田賢斗 が怪我の影響などもあり代表権を得られず、2016年リオデジャネイロオリンピック女子シングルス銅メダリストの 奥原希望 も国内選考レースで敗れ、涙を飲みました。

女子ダブルスも 福島由紀廣田彩花 組、通称「フクヒロ」が落選。

2016年リオデジャネイロオリンピックで「タカマツ」ペアとして日本初の金メダルを獲得した 松友美佐紀金子祐樹 と組んで混合ダブルスに転向していましたが、日本代表には至らず。

国内の代表争いを経て決定された2024年パリオリンピックのバドミントン日本代表チーム。

 

男子シングルスの 奈良岡功大西本拳太 は、ともに決勝トーナメント1回戦負け。

 

女子シングルスは 山口茜 が3大会連続の準々決勝敗退。

奥原との国内選考レースに勝ち切って初出場となった 大堀彩 も準々決勝で敗れました。

 

男子ダブルスでは2021年に世界バドミントン選手権やBWFワールドツアーファイナルズを制し、2022年にはバドミントン男子ダブルスで日本人初の世界ランキング1位となった 保木卓朗小林優吾 組、通称「ホキコバ」が期待を集めるも、グループリーグで姿を消しました。

2024年のパリオリンピック、陸上のやり投げで日本人初の金メダルに輝いた北口榛花さんは中学生までバドミントンをしていて、山口茜さんとは小学生時代の全国大会で対戦し、その時は山口さんが2-0で快勝したんだって。

今じゃ陸上のやり投げ界で世界を牽引する立場になった北口榛花さん、身長は180cm近くあるし、さらにはあの身体能力も兼ね備えて、もしバドミントンをそのまま続けてくれていたら、とんでもない逸材になったかもしれないなぁ。

ついでに、野球の大谷翔平さんのお母さんも元バドミントン選手なんだよ。

中学生の時に神奈川県代表のチームに選ばれ、全国大会の女子団体の部で準優勝。

しかも、同学年だったあの陣内貴美子さんとも対戦経験があるんだとか。

パリオリンピックのバドミントン女子シングルス準決勝は、スペインのカロリーナ・マリン 対 中国のヘ・ビンジャオ。

試合は1ゲーム目をマリンが先取し、2ゲーム目も10-5とリードしたところで、スマッシュを打ったマリンが古傷の右ヒザを負傷、その場でコートに倒れ込み、途中棄権になってしまったのです。

 

不戦勝で決勝に進んだ中国のヘ・ビンジャオは韓国のアン・セヨンに敗れましたが、ヘ・ビンジャオは表彰式でスペインの国旗をあしらったピンバッジを右手に持って写真撮影に臨みました。

そう、スペインのカロリーナ・マリンに敬意を示すために。

カロリーナ・マリンさんといえば、2016年のリオデジャネイロオリンピックの金メダリストで、その時は準決勝で中国のリー・シュールイさんが左ヒザを痛めて3位決定戦を辞退したことにより、奥原希望さんが銅メダルを獲得したよね。

8年の時を経て、スペイン人選手と中国人選手の間にまたこのようなことが起こるとは何かの因果なのか。

スペインのカロリーナ・マリンさんは表彰式での中国のヘ・ビンジャオさんの様子を見て、「生涯をとおして感謝し続ける」というコメントを残してるよ。

2024年のパリオリンピックの中でも心温まる話として語り継がれているのさ。

女子ダブルス日本代表は、永原和可那松本麻佑 組、通称「ナガマツ」と、志田千陽松山奈未 組、通称「シダマツ」。

 

オリンピック2大会連続出場となった「ナガマツ」はグループリーグ1勝2敗で予選敗退。

 

一方の「シダマツ」は2022年の全英オープンを制していて、2023年には世界ランキング2位まで浮上、その後も上位をキープしながら迎えたパリオリンピック時は同ランク4位。

グループリーグを2勝1敗の2位通過で勝ち上がり、準決勝では中国のリュウ・シェンシュー/タン・ニン組に敗れましたが、3位決定戦でマレーシアのパーリー・タン/ティナ・ムラリタラン組にゲームカウント2-0のストレートで勝利して、「シダマツ」ペアが銅メダルを獲得しました。

「シダマツ」の志田千陽さんはミスをしてしまった後に、ラケットで額を叩いたり、大きく両手を広げ足を振り上げてたり、その場でクルッと回転したりしてるけど、あのオーバーリアクションは幼い頃にバレエをやってた影響かもしれないっていう噂もあるとかないとか。

混合ダブルスは、2021年と2022年に全英オープンバドミントン選手権を連覇し、世界バドミントン選手権では2年連続の銀メダル、2022年には同種目で日本人初の世界ランキング1位にもなった前回大会2020年東京オリンピックの銅メダリスト 渡辺勇大東野有紗 組、通称「ワタガシ」が2024年のパリオリンピックでもグループリーグを1位で突破します。

決勝トーナメントの準々決勝はタイのプアバラヌクロ/タエラッタナチャイ組に23-21、21-14で勝利、続く準決勝は中国のテイ・シイ/コウ・ガケイ組に14-21、15-21で敗れました。

それでも3位決定戦で、韓国のソ・スンジェ/チェ・ユジョン組に21-13、22-20のストレートで勝利して、銅メダルを獲得。

 

「ワタガシ」ペアは日本バドミントン勢初のオリンピック2大会連続のメダルに輝きました。

渡辺勇大さんと東野有紗さんはお互いにバドミントンの強豪校に通っていて、渡辺さんが中学2年生、東野さんが中学3年生の時にインドネシア遠征があって、その時の大会では強い選手同士から先にペアを組んでいった結果、最後に残った「余り物」のような感じでペアが結成されたんだって(笑)
それが2大会連続のオリンピック・メダリストなんだから、何があるか分からないもんだよねぇ。

く…