バドミントンの歴史
バドミントンのルーツ
実は、バドミントンのルーツは古代文明にまで遡ります。
羽根を使った遊びはユーラシア大陸全域で行われていて、古代ギリシャや中国、さらにはアメリカ大陸の先住民族の間でも見受けられました。
人々が足を使って羽根を空中に保つ中国の遊び「建子」の歴史は2000年以上前になります。
中世ヨーロッパでは羽子板のようなものと羽根を使う遊びが子供から大人にまで楽しまれていたようです。
とはいえ、これは単なるレクリエーションの1つで、競争要素などは含まれていませんでした。
日本で羽子板と羽根といえば、お正月の女の子の遊びを思い出しますよね。
その羽子板と羽根の歴史は7世紀頃から宮中で行われていた『毬杖(ぎっちょう)遊び』が起源とも言われています。
羽根つきは邪気を祓い無病息災を願う縁起物として宮中から庶民に広がっていき、鎌倉時代になると羽根つき遊びになりました。
縁起物や飾り物として豪華な羽子板に変化したのは、江戸時代の元禄の頃。
災いを「はね」のけるという縁起を担ぎ、女の子が生まれて初めて迎えるお正月に羽子板を飾る習慣が各地で流行るようになったそうだよ。
また、羽根の付いている玉は「むくろじ」という木の種で、これを漢字で書くと「無患子」、すなわち「子供が患わない」という意味が含まれているとも。
もう1つ、羽根の形をトンボに見立てトンボが蚊を食べる益虫であることから、お正月に羽根をつくと夏になっても蚊に刺されないという迷信もあったとか。
このように日本の羽子板と羽根つきには昔から子供の無事を願う暖かい親心が込められているんだね。
バドミントンの起源
さて、ここからが本題です。
私達が現在スポーツやレジャーで慣れ親しみ、今では全世界での競技人口が3億3,900万人とも言われているバドミントンの起源には諸説あります。
「インドにおける新ゲーム、バドミントン」
出典:The Graphic,4/25,1874 p.13.
まず、最も有力な説として、元々はイギリス植民地時代のインドのプーナという地域で1830年代に行われていた皮の球をラケットでネット越しに打ち合う「プーナ(Poona)」という遊びを、インド帰りの兵士が1873年に本国であるイギリスに伝えたのが始まりとされています。
その兵士はプーナを紹介するためにシャンパンの栓に鳥の羽根を刺したものを使い、それをテニスラケットで打って見せたそうです。
その遊びが紹介されたのが、イギリスのグロスタシャーにあるボーフォート公爵サマセット家の邸宅「バドミントン・ハウス」であったため、バドミントンという名称がついたと言われています。
Battledore and Shuttlecock ラケット
もう1つは、イギリスに古くから伝わるバトルドーアンドシャトルコックという羽根突き遊びです。
このバトルドーアンドシャトルコックは15~16世紀に木の枠に羊皮や羊腸のストリングを張った「バトルドアー」に変化しました。
19世紀中頃、前述のボーフォート公爵サマセット家の邸宅「バドミントン・ハウス」で盛んに行われていたこの遊びは、競技性が低く最初は1人または2人で打ち合い続け、回数を競う程度のものでした。
そこで、この遊びをさらに面白くするために様々なルールが考え出され、1870年代にバドミントンという名称が定着したという説もあります。
なお、初期のバドミントンは「バドミントン・バトルドア」と称されていたそうです。
いずれにしても、イギリス南西部グロスタシャーのボーフォート公爵サマセット家の邸宅「バドミントン・ハウス」がその謂れとされていて、現在のバドミントンの発祥にはイギリスが深く関わっているのです。
余談になるけど、1895年ごろのアメリカで、キリスト教青年会(=Young Men’s Christian Association)、通称「YMCA」からインドに派遣されていたマッコノーイにより、ミントン「minton」と呼ばれるバドミントンに類似した5人制のスポーツが紹介されたんだって。
ウィリアム・G・モーガンはこれを元にミントネット「Mintonette」というボールを打ち合うスポーツを考え出し、バドミントンやテニスなどのルールを取り入れて、後にバレーボールと命名。
バレーボールの元になったのがバドミントンってのも意外だよね。
バドミントンのダブルスもバレーボールみたいに3回くらい打てればいいのに・・・
イギリスバドミントン協会設立
当時のイギリスにはいくつかのバドミントンクラブがあり、それぞれのクラブが独自のルール、いわゆるローカルルールを持っていました。
クラブの数が増えるにつれて各クラブは対抗戦を意識し始めたのですが、各クラブによってルールが違うため、対抗戦毎にルールを摺り合わせなくてはならなくなり、こうしたルール統一の必要性から、1893年に世界で初めてイギリスにバドミントン協会が誕生しました。
写真の後列右から2人目がドルビー大佐で、「The Badminton Association 」の初代会長です。
プレーする人数やコートの広さ、得点など、試合をする上でのルールが詳細に決められ、イギリスバドミントン協会が設立されて以降にルールの統一が進んでいきます。
こうしたルールを元にして、1899年にロンドンで第1回全英オープンが行われました。
ただし、第1回大会ではシングルスの試合は行われず、男女のダブルスと混合ダブルスの3種目のみで、全てイギリス勢が制しました。
1921年にはカナダ、1930年にはデンマーク、オランダ、フランスにもバドミントン協会が設立され、1934年に国際バドミントン連盟(IBF=International Badminton Federation)が誕生。
近年ではオリンピックの方が注目されがちですが、オリンピックや世界選手権よりも、全英オープンや国別対抗団体戦のトマス杯、ユーバー杯の方が長い歴史と伝統を誇ります。
トマス杯とは1948年にイギリスのプレストンで初開催された男子バドミントンの国別対抗団体戦で、ユーバー杯は1956年に同国のランカシャーで始まった女子の国別対抗団体戦です。
どちらも20世紀初頭に活躍した伝説の名選手、ジョージ・トマス、ベティー・ユーバーの名前に由来しています。
団体戦で加えておくと、男女混合の国別対抗団体戦スディルマンカップは1989年から2年に1回、奇数年に開催されています。
この大会はインドネシアを代表するバドミントン選手、ディック・スディルマンの功績を讃えています。
日本のバドミントンの始まり
日本では1921年、横浜のキリスト教青年会「YMCA」の体育主事をしていた広田兼敏が、アメリカ人の名誉主事スネードから用具一式を寄贈されたことが始まりと言われています。
広田はその後、在日欧米人からバドミントンを学び、1933年に横浜YMCAの体育活動に取り入れ、1937年にバドミントンクラブを作りました。
ところが最近の研究で、1907年6月発行の「東京模範商工品録」に掲載された日本体育商会の広告「日本体育商会カタログ」に、「新遊戯バドミントン」としてバドミントン用品が紹介されていたことが分かりました。
イギリスにおけるバドミントンの起源にも諸説あるように、日本のバドミントンの発祥も今後様々な考察があるかもしれません。
その後、第二次世界大戦のため普及活動は一時停滞しますが、1946年の終戦後に各地のYMCAなどのクラブチームはバドミントンを再開しました。
同年11月2日には日本バドミントン協会が設立されます。
1947年、第1回全日本総合バドミントン選手権大会が開催され、男子シングルスは岡淳一、女子シングルスは中村たきが優勝しました。
なお、岡淳一はこのあと1950年まで男子シングルスを4連覇しています。
男子ダブルスは広田敏秀/藤井光男組、女子ダブルスはシングルスと2冠の中村たき/川俣千枝子組、混合ダブルスは森勇/岡広子組が優勝。
1949年には第4回国民体育大会の競技種目となり、1950年は第1回全日本学生バドミントン選手権、1951年には第1回全国高等学校体育大会バドミントン競技大会、1952年には第1回実業団バドミントン選手権も開催されました。
実業団チームの男子は富山県の十條製紙伏木工場、女子は愛知県のトヨタ自動車が第1回大会からともに3連覇するほどの強豪チームでした。
日本バドミントン創成期
1952年になると、日本も国際バドミントン連盟に加わり、急速にバドミントンが広まっていきます。
1954年、男子チームが初の国際大会となる男子の国別対抗団体戦、第3回トマス杯のアジア地区予選に出場しました。
女子チームは1965年-1966年に女子の国別対抗団体戦、第4回ユーバー杯で優勝するという快挙を成し遂げてます。
その後、日本の女子チームは1968年から1981年までに4回もユーバー杯で優勝するほどの強豪国になっていたのです。
1966年には秋山真男が全英オープンに男子シングルスで初出場。
日本人初の決勝進出を果たして準優勝という結果を残しました。
中山紀子
湯木博恵
1967年の全英オープンでは、中山紀子が女子シングルスで決勝まで勝ち上がり、アメリカのジュディ・ハッシュマンにフルゲームの末に敗れましたが準優勝。
1969年および1972年の全英オープン女子シングルス決勝では中山紀子と湯木博恵の日本人対決になりました。
1969年は湯木が同種目で日本勢として初優勝。
湯木は1971年に中山と組んでダブルスでも全英オープンを制しており、1974年と1975年にはシングルス2連覇、1977年にもシングルスで女王になっていて、計4度優勝しています。
2度目の日本人対決になった1972年は、中山が湯木を11-5、 3-11、 11-7で下して優勝。
さらに、公開競技として行われた1972年のミュンヘンオリンピックにおいては、女子シングルスに出場した中山紀子が金メダル、湯木博恵が銅メダルを獲得しました。
中山紀子さんの旧姓は高木なので、その名前で記録が残ってることもあるよ。
中山さんは日本女子バドミントン界のパイオニア、湯木さんはその強さから「女王」と呼ばれ、当時の強豪日本を支えていたのさ。
バドミントンは1972年のミュンヘンオリンピックで公開競技として行われた後、その次のモントリオールオリンピックから正式競技になると言われていましたが、中国が脱退するなどして国際バドミントン連盟が分裂する事態が起こってしまい、立ち消えになってしまいました。
1976年、銭谷欽治が全日本総合バドミントン選手権大会の男子シングルスで、この年から4連覇するなど、計7回の優勝。
また、全日本社会人バドミントン選手権大会でも4度優勝し、全日本実業団バドミントン選手権大会でも6回の優勝を誇り、日本の男子シングルスを牽引しました。
さらに銭谷欽治は1979年と1982年に国別対抗団体戦のトマス杯の主力選手にも選ばれ、地区予選を勝ち抜き本大会に出場し、1979年には準決勝進出を果たしました。
銭谷欽治
1988年のソウルオリンピックでは、また公開競技ではありましたが、女子シングルスに出場した北田スミ子、男子ダブルスに出場した松野修二/松浦進二ペアが銅メダルを獲得しています。
1992年 バルセロナオリンピック
1992年のバルセロナオリンピックにてバドミントンがやっと正式種目として採用されました。
このバルセロナオリンピックに出場したのが陣内貴美子。
サントリーバドミントン部を経て、ヨネックスバドミントン部に所属し16歳で代表チーム入り、バルセロナオリンピック日本代表として女子ダブルスで森久子とペアを組みましたが、2回戦で敗退してしまいました。
バドミントンの美女プレーヤーといえば、その元祖は陣内貴美子さんなんだよ。
この2年後の1994年に第一線を退いたけど、ヨネックス所属でバドミントンの普及に努める傍ら、各メディアでキャスターやリポーターなどを担当したり、バラエティ番組にも出たりとか。
平日の夕方、某ニュース番組の「きはらさ~ん、そらジロ~」は一世を風靡したでしょ(笑)
陣内貴美子・森久子ペア
国際バドミントン連盟(IBF)はオリンピック種目として生き残るために、2000年から7点5ゲーム・サイドアウト制を試行し始めました。
サイドアウト制とはサーブ権を奪い合い、その権利のある方にしか得点が入らない形式です。
しかし、この得点システムは2002年6月に見直され、元の15点(女子シングルスは11点)3ゲーム・サイドアウト制に戻されました。
2005年はIBFの提案により、ラリーポイント制について実験的採用が行われた年になりました。
ラリーポイント制とはサーブ権に関係なく、得点が入っていく形式です。
2006年5月6日、トマス杯およびユーバー杯が開催中の東京で開かれたIBF年次総会において、21点ラリーポイント制の得点システムが加盟各国理事に満場一致で支持され、IBFの世界ランキング大会はこの方式で行われることが正式に決定し、現在に至ります。
なお、国際バドミントン連盟(IBF)は2006年9月に世界バドミントン連盟(BWF=Badminton World Federation)に改称されています。
オグシオの登場
しかしながら、日本はしばらくオリンピックではメダルを獲得できませんでした。
ここで現れたのが、小椋久美子と潮田玲子の2人です。
小学生時代から全国大会の常連出場選手だった二人は2002年の三洋電機入社とともに正式にダブルスを結成。
2006年のアジア大会や2007年の世界選手権では銅メダル、全日本総合選手権5連覇などの輝かしい成績を収めました。
揃って容姿に優れていると言われ、バドミントン界では陣内貴美子以来のルックスと実力を併せ持つアイドル的アスリートとして数々のメディア出演もこなし、バドミントンの広告塔、所属企業のイメージキャラクターとしての役割も担い、写真集まで発売されたほどでした。
2008年の北京オリンピックに出場した小椋久美子/潮田玲子ペア、通称「オグシオ」は、小椋の腰椎捻挫が4月中旬に再発していたことによりベストコンディションには程遠い状態だったものの5位入賞。
またこの大会では末綱聡子/前田美順ペア、通称「スエマエ」がベスト4入りを果たしました。
小椋久美子・潮田玲子ペア、通称「オグシオ」
2012年 ロンドンオリンピック
2008年、全日本総合バドミントン選手権大会の男子シングルスで田児賢一が初優勝。
舛田圭太が保有していた19歳8ヶ月の同種目最年少優勝記録を19歳4ヶ月に更新し、以後2013年大会まで6連覇したのです。
2010年の第100回全英オープンでは日本人として秋山真男以来、44年ぶりに決勝進出。
決勝では当時世界ランキング1位のマレーシアのリー・チョンウェイに19-21、19-21で敗れるも、伝統ある全英オープンで栄えある準優勝に輝きました。
田児は2012年ロンドンオリンピック男子シングルスの出場権を獲得しましたが、同大会では予選リーグの試合でスリランカのニルカ・カルナラトネに敗れ、決勝トーナメント進出はなりませんでした。
田児賢一
なお、1996年のアトランタオリンピックから正式種目になった混合ダブルス、2012年のロンドンオリンピックには池田信太郎/潮田玲子ペア、通称「イケシオ」が出場しました。
潮田は2008年12月に女子ダブルスの「オグシオ」ペアを解消し、2012年は混合ダブルスの「イケシオ」として、2大会連続でオリンピック出場を果たすものの、2012年のロンドンオリンピックは1勝2敗で予選リーグ敗退を喫しました。
2008年の「オグシオ」ではバドミントンという競技を一般の人にも広め、2012年の「イケシオ」では新たに混合ダブルスの道を切り開いたこと等を考えると、潮田玲子さんの日本バドミントン界における功績は大きいよね。
ただ、その経緯やメディアへの露出の仕方などに異論とかも見受けられるので、好き嫌いは人それぞれあるのかもしれないけど。
そして、2012年のロンドンオリンピックでは、青森山田高校出身の先輩後輩で、インターハイにおいてはシングルス、ダブルス、団体の全種目優勝を成し遂げた女子ダブルスの藤井瑞希/垣岩令佳ペア、通称「フジカキ」が予選リーグを突破し、決勝まで勝ち進んで銀メダルを獲得。
この銀メダルがオリンピックの正式種目にバドミントンが採用されて以降、日本勢初のメダルとなったのです。
この「フジカキ」ペアの功績も後々大きく日本バドミントン界に貢献するのさ。
ちなみに、インターハイでの全種目制覇はあの陣内貴美子さん以来25年ぶりの3冠だったんだよ。
藤井瑞希・垣岩令佳ペア、通称「フジカキ」
違法賭博事件
桃田賢斗は2014年の国別対抗団体戦トマス杯で金メダル獲得に貢献し、2015年にはBWFスーパーシリーズでシングルス初優勝を果たしました。
2016年4月7日付の世界ランキングでは自己最高を更新する2位だったのです。
リオデジャネイロオリンピック、バドミトン男子シングルスのメダル有力候補として注目されていましたが、桃田が所属するNTT東日本チームの選手達が東京都内の違法カジノ店で賭博をしていたことが発覚。
桃田は出場中だったマレーシアオープンを棄権して急遽帰国し、NTT東日本チームの先輩だった田児賢一とともに謝罪会見することになりました。
調査によれば、田児は2014年10月から2015年3月に違法カジノ店を60回ほど訪れ、その負け額は約1000万円とも言われていて、桃田は田児の紹介で合計6回程度この店で賭博行為を行っていたとのこと。
これを受けて 日本バドミントン協会は緊急理事会を開き、田児に対しては無期限の協会登録抹消の処分、桃田は日本代表選手指定から外したうえで無期限の競技会出場停止処分とし、この年のリオデジャネイロオリンピックに推薦および派遣しないことを正式に決定しました。
この違法賭博事件の主犯格は田児賢一とされていて、田児がNTT東日本チームの後輩を引き連れ、率先して賭博をしていたようで、謝罪会見では泣きながら桃田賢斗や他の後輩たちの処分軽減を訴えるも認められず、田児自身はその責任の重さからNTT東日本も解雇になりました。
日本バドミントン界で男子初のメダルも狙えた桃田賢斗さんがリオデジャネイロオリンピックに出場できなくなったことにより、当時の日本バドミントン協会専務理事だった銭谷欽治さんが会見で泣いて悔しがっていたのが印象的だったなぁ。
2016年 リオデジャネイロオリンピック
2016年のリオデジャネイロオリンピック、バドミントン女子シングルス準々決勝は奥原希望 vs. 山口茜の日本人対決。
オリンピックで日本人対決になったのは1992年のバロセロナオリンピックでバドミントンが正式種目に採用されて以降初となりましたが、11-21、21-17、21-10のフルゲームの末に奥原が逆転勝ちを収めました。
奥原は準決勝でインドのシンドゥ・プサルラに敗れたものの、3位決定戦で対戦することになっていた中国のリー・シュールイがスペインのカロリーナ・マリンとの準決勝の試合中に左ヒザを負傷してしまい3位決定戦を棄権したことにより、奥原が不戦勝で銅メダルを獲得、日本のバドミントン史上初のシングルスでのオリンピックメダリストとなったのです。
奥原希望
さらに、この2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、女子ダブルスで2014年のヨネックスオープンジャパンで日本人初優勝、2016年の全英オープン女子ダブルスも制し、日本勢の世界ランキングで全5種目を通じて初の1位となった高橋礼華/松友美佐紀ペア、通称「タカマツ」が、ついにオリンピックで日本初の金メダルを獲得しました。
特に「タカマツ」の決勝戦はデンマークのクリスティーナ・ペーダーセン/カミラ・リュダユール組と最終ゲームまでもつれ込み、16-19から相手のミスもありながら怒涛の5連続ポイントで優勝を決めたシーンは今でも語り草になっています。
ある逸話として、高橋礼華さん、松友美佐紀さんとも元々はシングルスのプレーヤーで、本人たちもシングルスを志望していたんだけど、上のカテゴリーに進むにつれてシングルスでは通用しなくなり、2人ともシングルスのプレーヤーとしては失格の烙印を押されちゃったんだって。
そこで試しに余った2人をダブルスで組ませてみたところ、これがバッチリとウマが合い、あれよあれよという間に世界ランク1位まで登り詰めて、オリンピックで日本勢初の金メダルを獲得するまでに。
近代バドミトンではシングルスとダブルスでは別の競技かというくらい違いがあるように、各選手にはこういったプロセスもあるんだね。
高橋礼華・松友美佐紀ペア、通称「タカマツ」
あねミントンず設立
まるっきり私事ながら、あねミントンず が設立されたのが2018年の4月。
当初は姉崎の青葉台地区で育った幼なじみ同士でユル~くやってたバドミントンを、この年に姉崎公民館のサークルに登録をしたところから始まったのよ。
ユル~くバドミントンするのは今も変わってないんだけど。
そのうちにメンバーの中から友人や知人、家族なども参加してくれるようになり、人数が多くなってきたので、サークル内で行うトーナメント戦「あねミントンず杯」とか、ポイント制にしてランキング形式で年間チャンピオンを競い合うように。
ただね、公民館にサークル登録すると、事前に行動計画書みたいのとか連絡先等を記載した主要メンバー表などを提出する必要があって、さらに年に数回ほど会議にも参加しなくちゃならないんだよね。
また、秋には姉崎公民館で文化祭があり、運動系のサークルは特に催すものはないが、文化系のサークルがやってる展示会や皆で持ち寄った商品のバザー販売などもやってて、その役員とかを担当させられるため、今はサークルには登録せず、毎月1日の朝6時に翌月分の体育館予約をネットでするようしてて、個別に活動してるのさ。
姉崎公民館はバスケや卓球など他のグループにも人気があって、その予約がうまく取れないと、たま~に姉崎公民館以外になってしまうので、毎月1日の朝6時ってのは、そりゃもう1分1秒を争うくらい重要なのよ(笑)
桃田賢斗時代
違法賭博事件で無期限の競技会出場停止処分を受けた桃田賢斗は、試合に出場できない間は裏方として各バドミトン大会の設営準備や社会奉仕活動などを真摯に行っていました。
そうした行為が認められて処分が解かれると、2017年の全日本社会人選手権で優勝。
2018年には世界選手権で金メダルを獲得。
2019年にはバドミントン界で最も伝統のある全英オープンで日本男子シングルス初の優勝を成し遂げました。
さらに同年の世界選手権では決勝でデンマークのアンダース・アントンセンを21-9、21-3と圧倒し、全6試合で1セットも落とさずに世界選手権連覇を達成したのです。
2019年の国際大会においては歴代最多の年間11回の優勝を飾ると、世界バドミントン連盟(BWF)で男子世界最優秀選手を受賞。
BWF男子シングルス世界ランキングは2018年9月から2021年11月まで首位の座を維持するほどの活躍ぶりでした。
一方の田児賢一さんは2016年12月にマレーシアのプロリーグで競技復帰し、復帰戦では快勝したものの、それ以降は特に目立った成績は残せず。
そんな田児さんだったけど、2019年にマレーシアで「TAGO KEN」としてYouTubeを開始、バドミントンのレッスン動画を配信しながら国内外では個人レッスンなども行っていて、今でもバドミントンの普及活動に努めてるんだよね。
https://www.youtube.com/@tagoken2956
こうした実績が認められて、2020年11月1日に協会登録抹消の処分が解除されたよ。
桃田賢斗
2020年 東京オリンピック
バドミントンというスポーツが日本の中でより一層の認知をされ始めてきて、大きな願望を抱かれて迎えた2020年の東京オリンピック。
日本バドミントン協会は2004年に韓国出身でバルセロナオリンピック男子ダブルス金メダリストのパク・ジュボンヘッドコーチを招聘して、日本バドミントン界全体の底上げをしてきたのさ。
そこから積み重ねてきて、2012年ロンドンオリンピックでの「フジカキ」ペアの銀メダル、2016年リオデジャネイロオリンピック女子シングルス奥原希望さんの銅メダル、女子ダブルス「タカマツ」ペアの金メダル獲得など、同じ国内にいるメダリスト達とナショナルトレーニングセンターで切磋琢磨することによって選手層が厚くなり、個々人が大幅にレベルアップされて、地元で行われるオリンピックに万全と思われる形で臨むことになったんだけど・・・
新型コロナ流行による1年の延期はありましたが、この時の女子ダブルス日本代表は2021年7月24日時点で世界ランク1位だった福島由紀/廣田彩花ペア、通称「フクヒロ」と、2018年と2019年の世界選手権を連覇した同ランク2位の永原和可那/松本麻佑ペア、通称「ナガマツ」。
当時の世界ランク1位と2位を擁し、誰もがメダル獲得は確実と目論むも、「フクヒロ」の廣田はオリンピック直前の代表合宿で右膝前十字靭帯断裂の重傷を負い、手術は回避できたものの右膝にサポーターを巻いて出場、予選リーグは辛くも突破するが準々決勝で逆転負け。
廣田さんのあのゴッツいサポーターを見た時、特に曲げ伸ばしを頻繁に行う右ヒザなので、バドミントンをするには相当キツいだろうなぁと誰もが思ったはず。
その怪我が発覚後も、福島さんはどうしても廣田さんとオリンピックの舞台に立ちたかったんだって。
「フクヒロ」の敗退が決まった後、福島さんが1学年下の廣田さんの頭を優しくポンポンと叩いて労っていたのには涙を誘われたわ。
福島由紀・廣田彩花ペア、通称「フクヒロ」
永原は身長170cm、松本は身長177cmと、2人とも身長170cmを越える日本バドミントン界では稀有な大型ペア「ナガマツ」は、1次リーグで3連勝し順調に準々決勝まで進んだものの、韓国のキム・ソヨン/コン・ヒヨン組にゲームカウント1-2で敗れました。
「フクヒロ」と「ナガマツ」は2018年、2019年の世界選手権女子ダブルス決勝で2年連続の日本勢同士の対決となり、結果は前述の通り「ナガマツ」の連覇。
東京オリンピック決勝で3度目の日本勢対決も期待されたんだけど、どちらのペアも準々決勝敗退に終わっちゃったねぇ。
永原和可那・松本麻佑ペア、通称「ナガマツ」
女子シングルス代表は前回大会同様、奥原希望と山口茜。
奥原希望は2017年に日本人選手で初めて世界選手権女子シングルス優勝、山口茜は2018年にシングルスの日本人選手で初となる世界ランキング1位に浮上していましたが、東京オリンピックでは2人揃って準々決勝敗退。
男子シングルスは当時世界ランク1位の桃田賢斗が、予選リーグ第1戦でアメリカのティモシー・ラムには試合時間わずか33分で勝利するも、第2戦で韓国のホ・グァンヒに15-21、19-21のストレートで敗れ、まさかの予選リーグ敗退。
それ以外の年は目まぐるしい活躍をしていたのに、2016年といい2021年といい、桃田はオリンピックという舞台には縁がなかったようです。
桃田賢斗さんは2020年のマレーシア・マスターズの帰りに乗っていた白いバンがトラックに衝突する事故で、顔の裂傷と全身打撲の怪我を負い、さらに右眼窩底骨折までしていて、ホント運がなく、もったいなかったなぁ。
結局、地元で行われた東京オリンピックでは、混合ダブルスの渡辺勇大/東野有紗ペア、通称「ワタガシ」が銅メダルを獲得したのみで、これが日本勢唯一のメダルとなりました。
2024年 パリオリンピック
日本バドミントン界は、この頃から代表に選ばれるだけでも至難となり、世界ランキングもバドミントン全5種目それぞれで日本勢が上位を占めるようになってくるほど、各選手とも実力をつけてきたのです。
2024年のパリオリンピック国内選考争いでは、男子シングルスで一時代を築いた桃田賢斗が怪我の影響などもあり代表権を得られず、2016年リオデジャネイロオリンピック女子シングルス銅メダリストの奥原希望も国内選考レースで敗れました。
女子ダブルスも福島由紀/廣田彩花ペア、通称「フクヒロ」が落選。
2016年リオデジャネイロオリンピックで「タカマツ」ペアとして日本初の金メダルを獲得した松友美佐紀は混合ダブルスに転向していましたが、日本代表には至りませんでした。
山口茜
国内の激しい代表争いを突破して辿り着いた2024年パリオリンピック、男子シングルスの奈良岡功大と西本拳太は、ともに決勝トーナメント1回戦負け。
女子シングルスはオリンピック3大会連続出場となる山口茜、奥原との国内選考レースに勝ち切って初出場となった大堀彩も、準々決勝敗退となりました。
男子ダブルスでは2021年にBWFワールドツアーファイナルズや世界選手権制覇を達成し、2022年には男子ダブルス日本人初の世界ランキング1位に輝いた保木卓朗/小林優吾ペア、通称「ホキコバ」が期待を集めるも、予選リーグで敗れました。
2024年のパリオリンピック、陸上のやり投げで日本人初の金メダルに輝いた北口榛花さんは中学生までバドミントンをしていて、山口茜さんとは小学生時代の全国大会で対戦し、その時は山口さんが2-0で快勝したんだって。
今じゃ陸上のやり投げ界で世界を牽引する立場になった北口榛花さん、身長は180cm近くあるし、さらにはあの身体能力も兼ね備えて、もしバドミントンをそのまま続けてくれていたら、とんでもない逸材になったかもしれないなぁ。
ちなみに、野球の大谷翔平さんのお母さんも元バドミントン選手なんだよ。
中学生の時に神奈川県代表のチームに選ばれ、全国大会の団体女子の部で準優勝。
しかも、同学年だったあの陣内貴美子さんとも対戦経験があるんだとか。
パリオリンピックの女子シングルス準決勝では、スペインのカロリーナ・マリンと中国のヘ・ビンジャオが対戦しました。
試合は1ゲーム目をマリンが先取し、2ゲーム目も10-5とリードした場面でスマッシュを打ったマリンが古傷の右ヒザを負傷してしまい、途中棄権になってしまったのです。
不戦勝で決勝に進んだ中国のヘ・ビンジャオは韓国のアン・セヨンに敗れましたが、ヘ・ビンジャオは表彰式でスペインの国旗をあしらったピンバッジを右手に持って写真撮影に臨みました。
そう、スペインのカロリーナ・マリンに敬意を示すために。
カロリーナ・マリンといえば、2016年のリオデジャネイロオリンピックの金メダリストで、その時は準決勝で中国のリー・シュールイが左ヒザを痛めて3位決定戦を辞退したことにより、奥原希望が銅メダルを獲得したよね。
8年の時を経て、スペイン人選手と中国人選手の間にまたこのようなことが起こるとは何かの因果なのかなぁ。
スペインのカロリーナ・マリンは表彰式での中国のヘ・ビンジャオの様子を見て、「生涯をとおして感謝し続ける」というコメントを残してるよ。
2024年のパリオリンピックの中でも心温まる話として語り継がれているのさ。
志田千陽・松山奈未ペア、通称「シダマツ」
ここで日本の女子ダブルスに新星が現れます。
志田千陽/松山奈未ペア、通称「シダマツ」は2022年の全英オープンで優勝すると、2023年には世界ランキング2位まで浮上し、その後も上位をキープしながら迎えたパリオリンピック時は同ランク4位。
予選リーグを2勝1敗の2位通過で勝ち上がり、準決勝では中国のタン・ニン/リュウ・シェンシュー組に敗れましたが、3位決定戦でマレーシアのパーリー・タン/ムラリタラン・ティナア組にストレートで勝利し、銅メダルを獲得しました。
「シダマツ」の志田千陽さんはミスをしてしまった後に、ラケットで額を叩いたり、大きく両手を広げたり、その場でクルッと回転したりしてるけど、あのオーバーリアクションは幼い頃にバレエをやってた影響があるのかもしれないんだって。
渡辺勇大・東野有紗ペア、通称「ワタガシ」
そして、混合ダブルスは2021年と2022年に全英オープンを連覇し、世界選手権においても2年連続の銀メダル、2022年には同種目日本人初の世界ランキング1位になった前回大会銅メダリストの渡辺勇大/東野有紗ペア、通称「ワタガシ」が3位決定戦で韓国のソ・スンジェ/チェ・ユジョン組に勝利して銅メダルを獲得。
「ワタガシ」は日本バドミントン勢初のオリンピック2大会連続のメダルに輝きました。
to be continued…